1995年1月17日、阪神・淡路大震災が住んでいた神戸を襲う。団地の5階、自宅のドアを開けたら階段が真っ二つになっていた。
誰とも連絡が取れない。
市内の高速道路が倒壊して、会社にも行こうにも行けない。
実家の鳥取に帰省して不在だった親方の代わりに、まずは、神戸にいた親方の家族のところに直行して無事を確認。
そのあとのことはよく覚えていない。
激震地区を歩いた。
あちらこちらで、人ががれきの下敷きになっていた。
助けることもできない。まるで、漫画で見た『はだしのゲン』のようだと思った。
震災で、仕事は復興工事一色になった。
まずは、道路を通れるようにする。ダンプにユンボを積んで現場に行き、ブロック塀やがれきを撤去していく。
高校を卒業した同級生たちが仕事を手伝ってくれるようになった
「自分はユンボの操作がうまかったので、一緒にチームを組んでやってましたね」
がれき撤去の復興工事は約半年で落ち着いた。
復興工事の実績もあり、会社は有限会社となり、親方は社長になった。
16歳で働き始めた少年は、めきめき力をつけて、18歳のころには現場では管理者になっていた。
「自分が親方だったら、ここをどう仕切るだろうか」
いつからか、そう考えながら仕事をするまでに成長していた。
浦﨑さんにとって、26歳で独立した親方は思い描く理想の人材像だった。
親方が自分を成長させてくれたことを、自分も試してみたいと思い始めていた。
やがて20歳で結婚し、21歳で長男が誕生する。
「長男が生まれたということが、自分の人生の中で大きかったです。とにかく、がむしゃらに働こうと思いました」
22歳11月、浦﨑さんは親方のもとを離れ、半年後の4月25日、23歳でひまわり造園土木を立ちあげる。
ひまわりは震災復興のシンボルの花だ。